香港からこんにちは
Me, I like to make an effort. I like nothing better than concrete reality.
私自身、努力をするのが好きだ。 明確な現実以上に私が好きなものはない。
誰の言葉だと思われますか?
ノーベル賞受賞の物理学者?
オリンピックのゴールドメダリスト?
それとも、国際宇宙ステーションISSに搭乗している宇宙飛行士、でしょうか?
これは、今週2月19日にフランス・パリで85歳の生涯を閉じたファッション・デザイナー、カール・ラガーフェルド氏が、生前、英紙 The Weekend FT (Financial Times 週末版) のインタビューで語っていた言葉です。
心から哀悼の意を捧げます。
CHANEL、FENDI、KARL LAGERFELD という、3つの高級ブランドのデザイナーを最期まで兼任し、世界のファッション業界中枢にい続けたカール・ラガーフェルド氏。
中でも、CHANELのデザイナー、アートディレクターとして、彼がファッション界に与え続けた影響は計り知れません。
ブランド創業者でありデザイナーであったココ・シャネルを1971年に失い、その後、方向性の喪失で低迷していたCHANEL 。
1983年にCHANELとデザイナー契約を結んだカールは、メゾンを再びラグジュアリーブランドとして蘇らせるべく、彼の全クリエイションを余すところなく投入し、その手腕を発揮していきました。
繊細で天才的なクリエイターほど時に脆い面があり、それゆえに、自ら道を断ってしまうことも、実は多いもの。
例えば、クリスチャン・ディオールの元デザイナー、ジョン・ガリアーノ。 ビョークやレディ・ガガ、リアーナにも熱烈に支持されていた、アレクサンダー・マックイーン。
彼らのクリエイションは、オリジナティ溢れる類い稀な才能があったにもかかわらず、天才クリエイターの性ゆえの、ナイーブな運命だったようにも思います。
そんな、浮き沈みの激しいファッション業界において、一度たりとも調子を崩さず、スランプに陥ることもなく、一大メゾンのアトリエを指揮。
コレクションに次ぐコレクションでは毎回、洗練と安定感と圧倒的なクリエイションをもって存在感のある素晴らしいショウを展開し、36年間にわたりCHANELを牽引。
FENDIにおいては、1965年から50年以上にもわたりクリエイションに貢献し、世界のファッション界第一線で活躍し続けてきました。
オートクチュール、ファッション、アートという、究極の感性、創造性の世界にあって、実はものすごく地に足のついた現実主義者でもあったカール。 それは、インタビューで語っていた彼の言葉からも分かりますね。
その超人的なバランスが、彼が奇跡に近い偉業を成し遂げた理由の一つだったのかもしれません。
仕事のペースを落とすことなく強靭な精神力と完璧なまでの自己コントロールによるストイックな生活スタイルで、クリエイションし続けたカール。
CHANELのデザイナー、アートディレクターとして、華やかな創造性と優れた商才を組み合わせ、CHANEL社に巨大な利益を与え続けていったのです。
エレベーターに一緒に閉じ込められるなら、誰をパートナーに選ぶ?と聞かれ、『もちろん Choupette (シュペット) だよ』と答える、溺愛の美猫シュペットと一緒のカール。
1月22日、みぞれ雪が降りしきる、それでも変わらず美しい街、パリ。
今となってはカール最後のCHANELコレクションとなった、2019年春夏オートクチュール・コレクションが先月、パリのグラン・パレで発表されました。
会場は、南欧貴族の館と、初夏の柔らかい陽光が注ぐイタリア式庭園がそっくりそのまま再現された、なんともゴージャスでシックで優雅な空間。
いつもはショウの最後に必ず現れるカールが、この時、初めて姿を見せず (香港の自宅から、ライブ中継でショウを見ていました)、もしや体調がすぐれないのではと心配していましたが、今思えばそうだったのかもしれません。
オートクチュール・メゾンの作り出すコレクションは、一着数百万〜数千万円というお値段も決して珍しくはありません。
とはいえ、昔と同じく最初から最後まで、全てアトリエの熟練したお針子さん達の手作業で、一着につき数ヶ月かけて制作されるもの。 とても採算が取れるものでは、実はないといいます。 売り上げを重視したビジネスとは見なされていないのです。
高い縫製技術と芸術的センスが融合した最高級のファッション、オートクチュール。
クチュールへのこだわり、伝統を守ることに格別な想いと使命があり、そこがブランドがブランドたる所以であり深みであり、お金では決して買えない歴史が見せる夢なのかもしれません。
CHANELのデザイナーとしてのカールは、常にココ・シャネルの継承人であることを、忘れたことはなかったといいます。
しかしカール本人は、自分がCHANELにもたらした変化を、ココ・シャネルは喜ばなかったかもしれない、と生前のインタビューで語っています。
『私がやることをココは嫌がったかもしれない。 しかし、CHANELというブランドのイメージを刷新するのが私の役目だった。 もしココが生きていたら、こんなものを作っただろうという直感は信じて創ってきた。 』
ココ・シャネルを常に念頭におくという点では、絶対にブレなかったカール。 しかし、時代の流れを読むことも忘れませんでした。
『生き残る種とは、最も強いものではない。 最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである』 と言った、ダーウィンの進化論を思い出します。
しかし当のカール本人は、自分の業績を特にそれほど評価していなかったようです。 亡くなる2カ月程前、回顧録を書いているのではないかという噂を否定していた彼。
『何も言うことはないので。 むしろ、私のことは忘れてもらいたい。 そうなるように手配している。』
JUN